学生の頃から海外旅行が好きで、船旅やバックパックの貧乏旅行で25か国くらいいきました。
初めての海外旅行は、韓国でした。
韓国は、飛行機で1時間くらいで行ける距離ですし、街並みも日本っぽくてあまり海外に来たという感じが無かったのを覚えています。
しかし、食事は日本と違う美味しさがあり、人も言葉は通じないですがとても優しく接してくれて、その感覚が新鮮でとても楽しかったのを覚えています。
そこから、中国、アジア、中東、アフリカ、ヨーロッパー、アメリカ、オーストラリア等、様々な国を訪れました。
その為、海外に行くこと自体は、それほど特別な感覚は無くなりました。
海外に出て思うこと、それは、外国人は人生の楽しみ方が上手だなと感じました。
日本では、戦後の貧しさから復興した厳しさに強い大人の姿を見てきました。
海外では朝から海辺をジョギングしている人や家族とサイクリングしている人等、楽しそうに生活している人をたくさん見ました。
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日本でも外国人と積極的にコミュニケーションをとりました
海外から帰って東京で働いたときも、スペイン人やアメリカ人の友達が日本に遊びに来た時に東京を案内したり、道端で困っている外国人旅行者に声をかけたりして外国人とのコミュニケーションを好んでやっていました。
そして、あるときインドネシア人の女性と出会い、結婚をしました。
海外にも外国人にも慣れた自分には、国際結婚もそれほど問題ではなく、すんなり結婚しました。
しかし、国際結婚はそう簡単なものではありませんでした。
結婚して3か月くらいは楽しいものでしたが、それからだんだん喧嘩が多くなりました。
喧嘩といっても怒るのは常に妻から。やはり国単位で文化やバックグラウンドの違うというのは、高ーい壁がありました。
結婚に関してお互いパートナーに求めるものも違いますし、東京で二人だけの生活でしたから寂しさもあったようです。
「日本人は冷たい」と何回も言われました。
また、当時私はプログラマーの仕事をしていたので、終電まで働いたり、年末年始も泊まり込みで働いたりしていましたから、家で一人で私の帰りを待つ妻はストレスを抱えていたようです。
詳細は書きませんが、救急車にもパトカーにもお世話になるほど荒れていました。
海外移住を決めました
そんな生活を変えるためにも、何か行動を起こさなければという思いと、海外で働いてみたいという思いから海外移住を考え出しました。
妻も海外移住には肯定的でした。今の生活を変えたいという思いもあったようです。
アメリカ、シンガポール、南アフリカ等、いろいろ検討しましたが、最終的には妻の国のインドネシア・ジャカルタに移住することに決めました。
まずは、移住後、仕事を探せるかが一番の心配事でしたが、JACという海外向けの転職サイトに登録して面接したところ、ジャカルタには日系企業がたくさんあり、日本人の募集もたくさんあることが分かりました。
その面接で、インドネシアでも転職できるとの感触を得て、それから妻と二人で移住計画を立てました。
・引っ越しの準備をする
・私がインドネシア語の教室に通う
それからの毎日は、移住という目標ができ、以前より前向きに生活できていたような気がします。
相変わらず喧嘩は多かったですが、妻は毎日弁当も作ってくれましたし(スパゲッティを茹でて、味付けのふりかけをかけただけのスパゲッティ弁当が多かったですが。)、二人で節約しながら生活しました。
移住計画を立てて約一年後、会社にも退職することを報告し、家具などもたくさん処分していた矢先、東日本大震災が起きました。
当時私は、川崎のビルの23階にいて、机の引き出しが飛び出るほど大きく揺れたことを今でも鮮明に覚えています。
地震で揺れている最中、ビルがポキッと折れるイメージが頭に浮かび、今日ここで死ぬのかなとも思いました。
幸い、周囲にケガをする人もおらず、みんな無事でしたが、電車が止まってしまったため、川崎からアパートがある品川まで約2時間歩いて帰りました。
そんなこんなで、ドタバタの移住となりましたが、2011年のゴールデンウィークにジャカルタに無事到着。
妻の実家に居候する形で移住生活がスタートしました。
ジャカルタで就職
それから、転職活動をはじめました。JACのジャカルタオフィスにも行き、セルナジャヤという現地の転職サービスにも登録しました。
2011年当時、ジャカルタは好景気。求人は沢山ありましたが、当時20台の若く経験のない自分にはなかなか内定をもらえず。日系大手のIT企業に就職するまで6カ月かかりました。
ビザ的にもぎりぎりのタイミングでしたが、無事就職も決まりジャカルタでの仕事をスタートしました。
仕事内容は、ITの営業。もともとプログラマーの技術屋さんでしたので、パソコンやサーバー等のハードウェアの知識はほとんど無く、かつ営業も経験ゼロでしたが、アポだけは簡単に取れました。
基本的に日系企業への営業でしたので、日本語を使いました。一方、社内ではインドネシア人のスタッフと働きますので、片言の英語で会話していました。言葉は大切ですが、はじめから完璧に準備する必要はありません。
仕事で一緒にいる人たちとコミュニケーションする中で徐々にできるようになります。
また、某工場の駐在員社長さんは、完全なカタカナ英語を話していましたが、日本人英語に慣れているインドネシア人スタッフは、それを理解していました。
転職先の社名が大きく安心してもらえたこと、また、海外に住む同じ日本人ということで、日系企業の社長さんにどんどんアポを取りました。
2012年、2013年は待っているだけで、どんどん仕事が来るほど、好景気でした。
日系企業のインドネシア進出で、IT機器需要が一気に増え、営業力は無い自分ですが、グループ会社内で東南アジアの営業担当者で3位を取るまでになりました。
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インドネシアで日本人は貴重な存在
インドネシアは、バリ島が有名ですがその他の地域はあまり知られていません。
イスラム教が多い国で、テロなども報道されていますし、移住先としては候補にならないようです。
しかし、住めば都。多くの企業で、日本人には車と運転手を支給してもらえますし、住居手当ももらえます。
また、年に1回の日本への帰国費用も負担してもらえる企業もあり、日本で働くよりも至れり尽くせりです。
日本人として日本で働く場合、競争相手が多いですが、インドネシアで日本人として働く場合、日本人というだけで付加価値がつきます。
実は便利なジャカルタ生活
インターネットも安く、私はスマホの通信費が毎月1000円。タブレットの通信費が毎月1000円。
家の光インターネットが、毎月3000円くらいです。
食事もケータイアプリで頼めば、直ぐに持ってきてくれます。
コーヒー一杯でも、30円くらいの手数料で直ぐに持ってきてくれます。
イオンモールもありますし、日本のスーパー、日本のレストランもたくさんあります。
アマゾンプライムで日本語で映画も見れますし、電子書籍で日本の本も読めますし、日本にいるのと変わらない生活が出来ます。
会社でインドネシア駐在となり、日本帰国の辞令が出た後も会社を辞めてまでインドネシアに残る日本人がたくさんいるほどです。

インドネシアの未来は明るい
個人的にあまりライバルを増やしたくないですが、インドネシアに住むことはかなり穴場です。
人口の50%が20代以下のこの国では、今がベビーブームの真っ盛り。私の小学生の子供もベビーブーマーです。
彼らベビーブーマーが大人になる頃、人口ボーナスという好景気が来ることが分かっています。
日本でもベビーブームの団塊の世代が成人した頃に高度経済成長をしました。
歴史的な好景気を前に、インドネシアで準備することは、人生の大きなチャンスだと思っています。
また、暗いニュースの多い日本から出て、明るい未来を見ているインドネシアの人々は、日本人にとって大変刺激になると思いますし、良い経験になると思います。